「篠原鳳作と天の川」

  • 2012.11.07 Wednesday
  • 00:54
 【原・記】

先日行われた11月例会、わたくしは残念ながらまた欠席だったのですが、
今回は前田霧人さんが篠原鳳作についてのレクチャーをしてくださいました。

参加された羽田野令さんが、ご自身のブログにその内容を紹介されています。
http://yaplog.jp/ef_ef/  ←「けふえふえふとふてふ」(羽田野令さんのブログ)

ご了解をいただき、転載させていただきます。

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読む会のメンバーの一人、前田霧人氏は篠原鳳作の研究家である。今日の会の前半は前田氏による鳳作の話。別の方から「天の川」の鳳作追悼号の資料を事前に貰っていたのだが、そこに出ている追悼座談会がちょっとヒドイくて。それが何故そういう内容になっているかについて前田氏から聞けた。

私が少し前に担当した「京大俳句」昭和十一年十一月号が、鳳作の死の直後に出た号だった。
西東三鬼の「鳳作の死」と題する三句が載っていた。

 鳳作の死   西東三鬼

友は今朝死せり野良犬草を噛む
わらはざりしひと日の終り葡萄食ふ
葡萄あまししづかに友の死をいかる

連作で出された中で、三句目だけが有名になりよく取り上げられている。三鬼自身の自選句集『三鬼百句』(昭和二三年刊)にもこの句は入っている。

三鬼は「京大俳句」のこの号に追悼文も寄せている。「九月十七日の午後、電報が来た。篠原鳳作がその日の朝死んだと書いてあった。」と始まっている。この号では平畑静塔も「鳳作の死を悼む」という文章を寄せている。

篠原鳳作と言えば、「しんしんと肺碧きまで海の旅」であるが、これは連作「海の旅」の中の一句である。昭和九年十月、鳳作の連作五句の「海の旅」から第二句の「船窓に水平線のあらきシーソー」と第五句の「甲板と水平線のあらきシーソー」が外されて三句のみ掲載された。それは雑詠三句欄の二人目で、巻頭の五句の人からは十八番目であった。そんな目立たない所に載った句であるのに評判になったのである。

鳳作の雑誌である「傘火」には全五句が載せられていたが、まだ「傘火」は無名な雑誌であった。

鳳作が亡くなった時、関わりのあった雑誌は追悼特集を組んでいる。「天の川」昭和十一年十一月号は巻頭には、鳳作とともに「傘火」を創刊した人の文章が載っていたりするのだが、東京での座談会のページは、読んでいてあれあれ?と思う様な記述が多々あった。

緑風という人や北巣子という人は何かにつけけなすのである。鳳作が俳句に非情に熱情を持っていたという会った人の発言に対しては、禅寺洞がむっつりした牛のような人だと言っていた、と発言しその言葉のあとに括弧に入れられて(菓子だけは手から離すことができないらしい)とその時の様子を描写している。他にも「お煎餅を噛じるのに忙しい中」等と皆でバリバリ煎餅を頬張って要る様子を伝える。追悼の会だというのに。

句についても、緑風は「ルンペン晩餐圖」は迫力に欠けていたとか言うし、北巣子は「如何なる場合にも作品に十二分に力を与えていなかった」とか言うのである。「にぎりしめにぎりしめ手に何もなき」という赤ん坊の句について、i音のリズムの魅力があると誰かが述べると、「今更取り立てて云ふべくそれほど目新しいものではない」と言う。この発言は内田慕情という人である。

鳳作がこのように書かれるのは、天の川の人達に嫉妬されたということがあると前田氏は言う。天の川が無季俳句宣言をした時の巻頭が鳳作だったことが反感を買ったのだとか。前田氏は天の川のこの号は鳳作がひどい扱われ方をしているので、中は読んでおいて下さいと言って目次についてだけ話された。

目次をみると横山白虹の名も見えないのである。それは昭和八年の甘美晦渋論争に端を発しているとのことである。甘美とは馬酔木、晦渋とは天の川で、秋桜子と禅寺洞との論争であるが後に二人は和解し、横山白虹は天の川の仲間を説得しようとしたことが逆に天の川の同人達との距離を生むことになったそうである。結局白虹は「天の川」を離れ昭和十二年、「自鳴鐘(とけい)」発行することになる。

秋桜子は、馬酔木では鳳作追悼を書かなかったが、「文芸春秋」昭和十一年十一月号には鳳作への哀悼の意の籠った文章を寄せている。そこにはこうある。「鳳作君は無季俳句の人であり、私とは相容れぬ見解を持つてゐるのであるが、その作には何か魅力があつていつも心がけて読んでゐたのであつた。私をして言はしむれば無季陣中第一の作者であつた。」

前田氏は資料としてご自身の著作からの抜粋のコピーをくださったのだが、「京大俳句」と鳳作の関連もいろいろあって面白い。鳳作が「『無季戦線に叫ぶ』其一」という文章を書いたのは、京大俳句昭和十年六月の所為だという。私達はもう既にその号は読んで来たが、そういうことは知らずに来た。私達と言ったが、私だけかもしれないが。

鳳作の「レコードの夕べ」を揚げて静塔が「作品月評」で厳しい評価をしていたり、福永和夫(=波止影夫)が「俳句の境界を引く」という文章の中で「無季俳句の建設。それは俳句の舞台から詩の楽屋への花道である」等と述べたことや樟蹊子の編輯後記などが、それ程まで言われては書かざるを得ないという気になったらしい。

「京大俳句」十年六月号を少し読み返してみた。樟蹊子の「正に天の川無季俳句建設に対する一斉射撃です」という後記の文章は、「天の川ともあらう論陣が、無季俳句如きを徹底的に理論と平行し建設しなかつたのは確かに愚。後でグズルことの上手な連中よ、出会へ出会へ。「まづ作品から」は逃道を作つて居ると思はれても仕方があるまい。」と、ほんとに喧嘩を売っているのに驚いた。

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篠原鳳作は、当時から新興俳句陣営にとって特別な存在だったのだろうと想像していたのだけど、
周辺にはいろいろと渦巻いているものがあったのでしょうか?
「馬酔木」と「天の川」は、ここまでの「京大俳句」に影響をあたえた2大俳誌であると思うのですが、
そこで活動していた俳人たちが、俳誌を越えて関わりあい、当時の俳句が編みあげられていたことがうかがえて興味深いですね。




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