ひとり一句鑑賞がはじまります

  • 2012.12.26 Wednesday
  • 23:17

 【新谷・記】

「京大俳句を読む会」は、みなさんがそれぞれのペースで研鑽を積まれ、守り立ててくださっているおかげで、この12月例会で50回目の節目を迎えました。毎回、懇親会も含め楽しく順調に進んでいますが、一方ページ数が多過ぎて消化不良気味になってきたのも事実です。

そこで、例会では省略しがちな作品部分(「会員集」「自由苑」「三角点」)の中から「ひとり1句鑑賞」をしようということになりました。まずは「京大俳句」昭和12年3月号から。


○「京大俳句」第五巻(昭和12年)第三號


「会員集」より

 
 冬日とほく燻り犬共疾走す     西東 三鬼


タイトルの「大森山王附近」はJR大森駅近く、今でもお屋敷や古い建物が残る緑豊かな 森のエリアである。三鬼の鳳作追悼句に「草を噛む野良犬」が出て来るが、この句の「疾走する犬共」も野良犬、恐らくは三鬼自身の投影。昭和十二年と言えば日中戦争が始まる年であるが、尖閣の問題、政党政治のていたらく、国民の貧窮、・・・、日本の現状は当時に酷似する。(前田 霧人)


 吹雪猛り船のさかるを見放たず  瀬戸口鹿影
 
「弟をバイカル丸に送る」と前書きのある連作八句の五句目。岸を離れる船のデッキで手を振る弟さんの姿が、激しい吹雪に遮られ、みるみるうちに視界から奪われていく。それでもずっと船を見送っていた─という、兄であり作者である鹿影の肉声。平明な言葉で、自然と人間との関係を誠実に詠まれた句だと思いました。(小寺 昌平)


 逍遥子見よペリカンが欠伸する   井上白文地
 
ペリカンが欠伸をしたとしても不思議ではないが、欠伸をしたと思えることは少ないのではなかろうか。だからこそ「見よ」と強く言った気持ちがよくわかる。ただ想像するに、さぞ大量の空気を吸い、傍に居ればきっと呼吸困難になったのではなかろうか。欠伸は睡魔から覚醒に移る時に起こるものだから、ペリカンは覚醒して何をしようとしたのだろうか。思いはつきない。(安藤 えいじ)


 働かぬ日に慣れ薔薇が赤い冬   和田邊水樓
 
何だか近頃のリストラ時代にでも作られそうな句ではないですか。職がなくなり持て余す時間の中で世話を始めた冬薔薇の血のような赤さが妙に気になるのです。今まではそんな目で薔薇の赤を眺めることもなかったのに・・。(四宮 陽一)


「三角点」より


 指揮棒振る幻影木の葉降る月夜    堀内薫


静塔先生も褒めているが、感覚が新しいと。21世紀の俳句は変り映えがしないので、切れだ、写生だ有季定型だと己の井戸を深くするばかり。弦の音がビーンと膨らみ浮遊する感覚と、月下の落ち葉が変幻自在時空をこえる組み合わせ、よかばい。(綿原 芳美)


 さむき夜の瞳の列にわが瞳    堀内 薫


前書きに、「ローゼンシュトック氏指揮演奏会」。また掲句には更に、前書き「C席」が付いている。チケットが廉価なC席に並ぶ人たちの〈寒き夜の瞳の列〉の措辞は、当時は珍しかった西洋音楽への期待に目を輝かせている人たちが知れる。上語は、作者以外の聴衆の列を眺めたものだが、下語は、一転して〈にわが瞳〉が添えられ、作者もまたその列にいたことが判る。視点が一句の中で客観から主観へ転換していて新鮮である。(花谷 清)


 わがそがひ朱唇冴ゆるをおそれけり   堀内 薫


演奏会の連作の「C席」と題のある三句のうちの一句。女性の真っ赤な唇、血を滴らせている様な連想も働く程の色が強烈な印象だったのでしょうか。「そがひ」は背後のことですから、C席に並んで座っている時の自分の後ろの方の唇が気になってならなかったということなのでしょう。演奏会ですましてお行儀よく座っていても、内心後ろの唇のことをこんな風に思っているという事が、ちょっと可笑しくもあります。

この句の前には、「さむき夜の瞳の列にわが瞳」という句があり、並んで座っている様子を皆の眼の中の自分の眼という意識の仕方で描いており、こちらは唇に注目した句となっています。この演奏会は、「ローゼンシュトック氏指揮」と前書きがあるので著名な指揮者の格調高い演奏会で、女性は化粧も濃く着飾っていたのでしょう。(羽田野 令)


 病める身が水平線の奥を戀ふ    山口朝霞


悩める若者の心情を句にしているが、言葉に遊び過ぎる。観念的で頭の中で創った感が見える。水平線の奥を戀ふ。私の感性ですと言われそうだが読み手には伝わらない。水平線の奥・・・ 一生懸命考えています。静塔も叙法の常識化をした方がいいと短評で書いていますが、その通りだと思います。(辻本 康博)


 ゆきふる日妻とり得ぬひと文よこす                              
 雪わびしニヒリストとも君が書きし   仁科海之介        


この2句で二人の人生の断面が現われてドラマがある。彼がニヒリストなのか、彼女が自嘲して言ったのかちょっと考えるが、彼女が彼に同調を求めて、ふたりの関係の悲観を単に表現したのかもしれない。ニヒリストという言葉はこのように、わびしい諦観をのみ言う表現なのか、もっと深い含蓄を蔵しているのか、二人の関係でのみ言っているのであれば浅い感傷にとどまると思う。

ニヒリストという措辞を俳句に持ち込むことは、語の本来の社会性から論理の回路に向わせて、俳句の詩語の世界から離れていくようにも思う。例えば、このニヒリストも、ニーチェ的に言えば「神の死」んだ世界を超えて、新しい真理の世界へ踏み出すという、積極的なニヒリズムを抱えた人間を措定すると、この俳句ではそうではなく、消極的ニヒリズムとして把えるだけでよいのだろう。社会性をもつ言葉を俳句に使う場合は、詩的感性の世界を離れて、社会的論理性の藪林に迷い込ませないか、注意を要すると思う。俗に言えば、世俗の垢に馴染んだ言葉は詩語としては使い難いということ、俳句はやはり嘘の無い大自然を詠みこなすのが王道だと思う。「京大俳句」には様々な実験が試みられて興味がつきないが、現在から振り返ってみて、現代俳句に生き残るべき何かを見出してゆくことは困難な課題だろうと感じている。(片山 了介)


 神経のひかりつめたくペン執れる   柳谷はつ


今号の紅一点。取り立てて良い句とも思えないが、作者は前年から「三角点」に投句し、度々白文地の高評を得ている。ペン生活者の苦悩や喜びを多く詠み、掲句についても「ペンに生きる女性」の気持ちよい緊張感が伝わってくる。今後も注目していきたい。(新谷 亜紀)

 
 あたらしき日に透明な鰈を吊る  西田 等

「透明な鰈」というのは、「見えない鰈」ではなく、「透明感のある白い鰈」といった程度のことだろう。が、私は見えない幻の鰈を吊ると読みたい。この「あたらしき」には、輝くような新しさはない。同じように繰返されるある日の朝。透明な(幻の)鰈を吊る、という詩的な行為に、なにか落ち着いた諦念を感じる。平仮名の「あたらしき」がういういしく、「透明な鰈」に合っているように思う。(原 知子)

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