ひとり一句鑑賞(9)

  • 2014.03.10 Monday
  • 12:01

「京大俳句」第五巻(昭和12年)第十二號

「會員集」より

軍歌ながれ白き公園にわれも流れ  波止影夫

軍歌は「軍隊で兵の士気を高揚させるための歌、また俗に軍隊生活を歌った歌謡曲」(広辞苑)軍歌が流れている街を歩いていた私は公園に流れついた。破調の句である。ながれと流れと詠っている。それに白き公園とある。黒きではなく白きである。白は太陽の光線を反射させることにより見える雪のような色である。人々が楽しく遊ぶ公園で、楽しいひと時を過ごす。深読みかも知れないが、軍歌が流れる暗い時代にあって純粋に平和を願う若者の心情が見える。少し甘いが、感傷的な若者の気持が感じられる作品である。(辻本康博)

石人を濡らし古唐の霧ならず  西東三鬼

唐代の石人や石獣は墓を悪霊から守る、或いは王の威厳を誇示するためのものだったのかも知れません。どういういきさつからか、日本の銀座に近い画廊の前に展示され、霧に濡れていたという。「古唐の霧ならず」に、作者ならではの詩的創造力が感じられます。(小寺 昌平)

鮎のぼりのぼり日輪嶺にひくく  岸 風三樓

作者が武田尾に旅した時の作句。夏の渓流を鮎の群れが溯上する姿を飽きず眺めている。清涼な空気と煌く水の色が五感に心地よい。ふと気がつくと太陽は既に山頂にかかろうとしている。山峡にいる作者の軽いため息が聞こえてくるようだ。(四宮陽一)

柘榴食めば青白の激流偲ばれむ  宮崎戎人

後の4句をよめば若い男女のおデイトでしょうが、この一句のみで、読者の穿った読みに任されると 流れや、風景でなく心象である方がいいきがする。柘榴には、チビのころの思い出があり、好きな季語だ。今秋は石榴を詠うことに因んで一句を決めた。(綿原)

閨秀歌人しぐるる家に夫(つま)を置き  井上白文地

原阿佐緒、九条武子、柳原白蓮は大正の三閨秀歌人と言われたそうである。上層階級の美しく、教養のある、恋多き女性たちである。「閨秀」という言葉に驚くのだが辞書で意味を引くと、芸術に優れた才能を持つ婦人とある。こういう言葉で言われていたことに何とも嫌な気分になるのだが、当時は「女流歌人」とそんなには違わない感覚で使われていたのだろうか。いや、ニュアンスは全然違うなあ。
掲句は「閨秀歌人」が出てくる八句の中のひとつ。これは誰を指すのかわからないが、京都に住む女性の歌人なのだろう。他の句では黒猫を抱いて市場へ来る様子なんかが詠まれている。「しぐるる家」と言っているところに、綺麗に装ったその歌人へ向ける白文地の批判的な目がある。そして、普通家に居るのは妻であった頃の、「夫を置き」なのだから。(羽田野令)


特別募集「入選作品」より

かりそめの歸郷にあらず職あらぬ坂  冬一郎

失職日記抄の歸郷雜唄六句の一つである。「かりそめ」は「一時的なこと」であり、それを打ち消しているから、どうにもならないから帰郷したという自嘲的な意味も籠めていることが伝わってくる。昭和十二年という時節が詠わせたのであろうが「職あらず」と二重に否定しているのが日本の行く末を暗示しているようだ。(谷川昭彌)

 不眠症一句
虫の音にまみれて腦が落ちてゐる  藤木清子

五周年特別募集「入選作品」より、不眠症の一句という。驚きました。全くそのような夜を体験したからです。季節も虫の夜どおし、バカンス帰国している娘とのいさかいで孫を苦しくさせて……みたいな期間限定の私よりももっと深く絶望的な自意識。「頭でつくる」と師に叱られっぱなしの私は脳をこのように切り離すべきなのか。(石動敬子)
 
不眠症一句
虫の音にまみれて腦が落ちてゐる  藤木清子

不眠症である自分の脳が虫すだく草原に落ちている……実景としてはあり得ない。「虫」という季語独特の情緒なども皆無に等しい。なのに……何と生々しい表現なのだろう。10月号で詠んだ「沈んでゆくおもひ」が、「虫の音にまみれ」るほど溢れ出したのか。「脳が落ちてゐる」という隠喩によって、この時代に女一人で生きていくことの不安・孤独・疎外感がリアルに伝わってくる。このようなデリケートな感覚をストレートに表現できた「新興俳句の力」を感じる。(新谷亜紀)

街しぐれシュバリエの顔わらつてゐる  佐藤鮎彦

前年(1936)制作のフランス映画「シュヴァリエの流行兒」のポスターの、少し首を斜めにカンカン帽をかざしている主演のMaurice Chevalierを作者は眺めている。俳優の笑顔は、作者を取り巻く時代の侘しさと皮肉にも響き合う。しぐれの日本的詩情とフランス映画の取り合わせは、新興俳句の以前にないモダンな作風。今なお古さを感じさせない。(花谷 清)


特別募集「入選作品」より

天の川まれにものいふ妻さみし坂  冬一郎

二人で一緒にいるけど、それぞれの感じている寂しさを詠んでいる句である。「天の川」というと、秋の季節に入るが、同時に織女と牽牛との恋物語が頭に浮かぶ。今は妻と一緒にその物話の舞台、つまり天の川を眺めているが、その美しさを楽しむのはもとより、その美しさによって自分の孤独感も強調されてくるであろう。それ故に作者でも、相手でも静かに黙っており、話をする気にもなれない。いや、何を話したらいいのかわからない。「失業日記抄」や「帰郷雑唱」と題している句なので、将来への不安と心配が漏れる。二人とも深い物思いに沈んでいる。または私の想像だが、作者が新しい仕事を見つけたため、故郷に残る妻と子供との別れの日が近づいてきたかもしれない。その背景で月光に照らされている妻の横顔を見つめる作者がいる。そんな作者に気づかないうちに私は同情し、非常に感動した。(マーティン・トーマス)


「自由苑」より

 情痴  西田 等
ながき髪になでくれ甘き乳房の香に
白き腕にやさしき君の唄を聴く
つめたき掌つつみしづかな白き胸に
みつめゐる瞳がつよくてひかりそむ
わきいづるあつき泪ぞたふれけり
美しき耳ひそと情炎棲んでゐる
まるい乳房のまんなかにあるちヽくび
性欲のはての人間うつくしき

「情痴」連作八句。この時代に官能的主題に取り組んだ意欲的な俳句作品は例がない。言葉の斡旋もひらかなの使用により、この耽美的な世界を描こうと意欲的である。しかし連作の設計的な構成、作者の倫理観、時代の制約からか、エロチシズムのドロドロとした官能美が投げ出されずに浄化されている。これは一句完結の俳句表現の本質的な特質かもしれない。(西田)


「三角点」より

 白文地選
満月にけものゝこゝろ野を駈けり  豊中市 西田 等

「満月にけもの」から狼男を連想した。この句を読んだとき、ちょうど8月の満月だった。何か句を詠みたいと思ったができなかった。そんなときに出会った俳句である。作者は狼男を連想しなかったかもしれないが、満月は、なぜか人を魅了する。(恵)

こほろぎの命たかまり壁細る  大阪市 橋本雅子

秋の夜が更け行くにつれて、蟋蟀の啼く声が徐々に激しさをましてきて、さらにじっと耳を澄ますとその声は外庭と隔つ壁を貫いて、虫の命を切々と伝えてきてやまない。それこそ壁をも突き抜ける程の音声で、壁も薄くなったかという措辞がおのずから想われたのだ。共感を呼ぶまっすぐな観照があると思う。(片山了介)
 
コメント
一句鑑賞(9)、(10)の公開の順番が逆になってしましました。すみません。
  • hara
  • 2014/03/10 12:05 PM
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