「「従軍記」軍医野平椎霞の憤怒と慟哭」 西田もとつぐ 

  • 2012.03.10 Saturday
  • 12:16

【会報1号より】

戦争俳句の系譜(一) 
「従軍記」軍医野平椎霞の憤怒と慟哭


西田もとつぐ


 「京大俳句」の研究(創刊)同人の一人野平椎霞(本名藤雄)は明治三十七年(1904)千葉県香取市に農業を営む藤平、さとの長男として生まれた。農家の長男の学業は高等小学校で終わるのが当時は普通であったが息子の学才と好学心を見抜いた父は旧制佐原中学へ、さらに水戸高校、京都帝国大学医学部への進学を認めた。そのたびに藤平は農家にとっては命である農地を売って椎霞の学費に充てた。椎霞は旧制佐原中学を首席で卒業するが遠距離の自転車通学に鍛えた体力により柔道に秀れ、三段跳の県記録を保持するなど文武両道であった。県立佐原高校に今なお歌われる第二応援歌は椎霞と同級生三人による作詞である。昭和三年京都大学医学部に入学した椎霞は鹿児島県出身の藤後左右(惣兵衛)と知り合い終生の友となる。二人は連れ立ち京大三高俳句会(京鹿子俳句会)に入会すると一年上の平畑静塔につれられ句会、吟行に励んだ。さらに「馬酔木」「ホトトギス」「京鹿子」に投句した。椎霞の本格的な俳句修行は京大三高俳句会に始まるが、俳号の由来は生家にならぶ椎の木になびく霞によるものと思われるが、彼の大らかなどっしりとした風貌を表す俳号である。


 帰省時に故郷の風景を詠み、京都近隣の吟行に励んだ。


  當たり蠶や利根越へ来る常陸桑

  水論の中に父ある帰省かな

  濯ぎ女に真菰人形浮き沈み(潮来)


  方相氏来るどよめきの人襖(吉田神社)


  茶覆のうち傾いて宇治川へ


   真向かひの山の紅葉は如意輪寺(吉野))


  火祭りや火のただ中に打つ太鼓(鞍馬)


  昭和7年「京鹿子」の若い京大生の会員達から主宰者のいない自由な俳誌「京大俳句」発刊が計画された。椎霞は研究同人として参加するが発刊の前年、京都連隊に幹部候補生として召集された。創刊準備は平畑静塔が中心となり進められた。同年、椎霞は京都大学医学部を卒業した。

 京都深草の連隊に幹部候補生として入隊した椎霞の目に過酷な新兵教育が刻み込まれた。一般召集の新兵達は下士官、古年次兵から「一人前の帝国軍人に鍛え上げる」と称する「いじめ」教育が待ち受けていた。


  柿の木の展望哨は柿を食へり


  新兵の大きな足がしかられぬ    


  新兵の闇がうれしく泣きにけり   


  クローバを踏んで歩調がとれぬなり 


  過酷な制裁を受ける新兵達に椎霞の暖かい目が注がれている。(これらの作品はホトトギス、京鹿子、馬酔木に発表された)椎霞は満期除隊となり、京大医局勤務のかたわら創刊された「京大俳句」に作品発表、編集、評論、後進の指導と多彩な活動を始めた。勤務医生活のなかに昭和十一年大阪守口市にて結婚すると長女、続いて長男を得た。昭和十三年拡大する日中戦争に応召して内地の陸軍病院勤務を経て中支派遣百一師団の衛生部軍医として上海に上陸した。この百一師団以降の番号の師団は日中戦争の激化とともに編成された特設師団である。師団構成は後備役の三十代半ばの兵が多く「おとうちゃん師団」とよばれた。既設の師団とくらべ装備、戦意に劣っていた。のちに百一師団長伊東正喜中将は重傷を負い内地に送還されて師団は再編成された。衛生部の軍医は第一線にあり死傷者の応急手当と後送の指揮にあたった。軍医も絶えず銃火にさらされ、時には戦闘の指揮をとることもあり、中国軍は希少数の日本軍医の消耗を狙い集中的に狙撃してきた。


  表情に飢へて姑娘 煙草喫む


   凍翁の死と抗日の壁文字と


  上陸した上海の中国軍の抵抗は激しく街には民衆の敵意の厳しい目が光っていた。


  かの雪が火を噴き雪をうちやまず


  岩のまろきいまはの君の血潮凍て


  あたヽかにしてこの補充兵死なしめん 


  助からぬ君も診る余も外科医なりき


  たましひのほか痩せ果てヽ戦へり


  お母さん!東京!神の声なりき


  「フーッ」息一つして神となりぬ


  千人針の裏で赤痢の衰へぬ


  軍医、補充兵の死に祖国に残る家族達の悲しみを思うのである。兵達の最後の言葉は「天皇陛下万歳」ではなく「お母さん!東京!」であり「息一つ」であった。千人針は内地の母や妻が息子や夫の無事を祈り一針ごとに縫いとめたが戦場では赤痢菌や虱の巣窟であった。


  砲声を聞いてやっぱり稲を刈る


  大根と婆を残していくさやむ


  僧の死の従容として寺院燃ゆ


  戦の跡に最新のチェッコ銃と傘を背に祖国防衛に戦う中国少年兵の遺体が累々とならび、焼打された寺院の僧は寺ともに死を選んだ。戦国時代に織田軍の武田残党狩を拒み「心頭滅却すれば自ずから火も涼し」と喝して火中に身を投じた恵林寺の僧快川の姿を思うのである。


  雪に出し宣撫ふたたびかへらざる


  宣撫女史やんはり語り雪つみぬ


  綿の芽や医療宣撫のバスを棄つ


  征服地の中国民衆に日中親善を説く矛盾した使命を負びて抗日の村に入る日本人宣撫官がいた。彼らは宣撫の村から帰らないことが多かった。椎霞たち軍医の医療宣撫は民衆に好評であり、戦場の心和む一時であった。椎霞は平和な村の村医になりたいと思った。


 昭和十五年一月「京大俳句」の幹部会員は治安当局により一斉に検挙される「京大俳句事件」が起こり「京大俳句」は創刊七年あまりで廃刊となった。その頃、椎霞は改編された師団のリベラル嫌いの旅団長のもとに江南作戦に従軍中であり、事件を知るはずもなっかったが、この年の従軍句帖は他の年と比べると句数が異常に多かった。軍医の検閲特権があったのか妻みきは戦地の夫に家族、身辺を情感こめた手紙を書き送り、椎霞は


  姉は四つ弟は二つ柊さす


  鬼やらふ四つの和子の声に似て


   犬死ふと目の前をかすめしが


  発作来る藁にくるまり藁が赤い


  百里逃げて百里の冬を吸い生きる


  修水の冬は音なく墓標たつ


  冬空の国のおとどらをいきどほる 


  子への思いは望郷につながり、過酷な戦場の死、中国民衆の果しない抵抗が続く、椎霞の着任前、修水渡河作戦には師団の士気を鼓舞するため毒ガスが使用された。


  医師は傷病者を死より救い、その回復を助けることが天職である。戦場はおびただしい死傷者を生み、兵達は次々と息を引き取ってゆく。妻子が待つ中年の補充兵が真っ先に倒れ、同僚の軍医も狙撃される。軍医の消耗が激しく椎霞は軍医補充のためひそかに一時帰国するが、補充した軍医は「一人もいなくなった」(?)と妻へ便りしている。傷の癒えた兵士達は祖国防衛のため欧米の武器援助を受けた中国軍の砲火に立ち向かっていった。敵意に満ちた中国民衆に囲まれ、戦線が奥地に広がると食料、弾薬の補給が困難となる。軍医椎霞もマラリアに倒れて発作が襲ってくる。まさに地獄図絵である。この戦争を命じた権力者への憤怒がこみ上げてくる。従軍句帳は昭和十四年八月二十四日に始まり、十七年十二月三十一日の記述で終っている。以後の句帳を紛失したものか、書かれなかったのか。兵士達は次々と銃弾に倒れ、病苦に苦しむ、医薬品、武器弾薬、食料品の補給も途絶えてくる。戦闘の激化は過酷な地獄絵をさらに描くことは出来なかった。


  寒と飢との果てに四十の年をねる


  中国戦線の軍医椎霞は飢と寒とマラリアの中に四十才を迎えようとしていた。 


 昭和二十年八月中国岳州に敗戦を迎えた椎霞はやせ衰えた体を支えて妻子の待つ千葉県下総町に辿り着いた。背嚢に従軍句帳が秘められていた。庭で入浴して虱を落とし、出された残りもののご飯に「こんなご飯を食べていたの、兵隊たちに食べさせてやりたかった」と手が震え絶句した


 防衛戦争、独立戦争、正義、不正義の別なく戦争は「互いの殺し合い」である。俳句の描く戦争は生死の世界をリアルに描き、失われてゆく生命の慟哭である。戦火に苦しむ国民をリアルに描くことであり、時には被占領地の民衆の姿に感動するのである。生命の尊厳を守る医師として天皇の御戦に出征した椎霞を待ち受けたのは限りのない日本軍兵士、軍医達、中国兵士や民衆の死であり、中国民衆の憎悪の眼差しであった。敵を憎むことは俳句文芸はなじまない。戦場は医師にとって無限の死を生むもっとも過酷な場である、軍医椎霞の心には命への愛が溢れていた。


 帰還後、病の癒えた椎霞は昭和二十二年銚子市に外科医院を開業して診療にあたり、医師会活動に従事した。俳句界に復帰せず医師会の句会の指導のかたわら自嘲めいて「京大俳句の残党」と語り、一時期は「双史」と号した。「双史」が「痩士」(痩せた男)か「二つの時代を生きた」の意かは解らない。ただ彼は二つの時代を峻別した。椎霞とともに「京大俳句」創刊に参加して砲兵将校として出征した長谷川素逝は虚子の激賞を受けた戦場句集「砲車」を戦後の句集からは三句を除いて全て抹消して戦争から決別せんとした。椎霞、素逝に戦争の傷跡の深さを思わせる。


  鰯まくる修羅の修羅場の銚子沖


  あかぎれの手もてわが子を打つほかなし 


  師走妻動じるところなかりけり


  時代祭火祭京の青年期


  短日の式部の顔は湖をむく


  深熊野五月豚飼う河川敷


  左右よ開発の爪を青田が阻めるか


  自由な気風の「京大俳句」から出発して過酷な戦場に身を投じたとき無季俳句、非定型俳句が多くなってくる。(従軍句帳の作品の多くは未定稿句である)戦後の自然詠、旅行吟など彼本来の有季定型句に故郷や思い出の京都、奈良、家族、友情を情感豊かに詠んでいる。戦後かっての盟友平畑静塔は「天狼」に参加して活発な作句と評論活動を展開したが、藤後左右は鹿児島にて医療活動と公害防止運動に比重が傾いていた。野平椎霞の俳句は豊かな感性による定型俳句の世界から出発している。俳句世界は多様であり、手法は様々であり、椎霞は非人間的な戦場では無季俳句のなかに瞬時に消えてゆく命を慟哭し告発する句を記した。結社に属し、俳壇に登場することのみが真摯な作句生活ではない。「双史」と区切ることにより再出発した戦後の椎霞俳句が始まったのである。俳句作品、「従軍句帳」を整理と公開をはたすことなく昭和六十二年(一九八七)七月六日、妻や子供達、友人に囲まれ静かに八十二才の生涯を閉じた。椎霞の胸の奥に非人間的な戦争の死者への慟哭と鎮魂、国のおとど(権力者)への告発は消えることはなかった。没後、妻みき、次男匡邦(銚子市長)と夫人優子の献身的な努力により手帖は解読、公刊された。 (終)

(二〇〇九・一〇・二九)

(京大俳句を読む会代表)

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