ひとり一句鑑賞(14)

  • 2015.02.06 Friday
  • 23:39

「京大俳句」第六巻(昭和13年)第七號                    


「会員集」より


聖戦博飄々と来て去り華人  中村三山

 

ネット検索してみると、この「聖戦博」は昭和13年(1938年)春、西宮球場で開催され、球場の観覧席やフィールドそのものを戦場場面にする大規模なものだったようだ。三山はこの様子を詠んだようだが、掲句の華人よろしく、詠みっぷりも飄々と超然とした感じさえ受ける。国家総動員法が発令されて間もないこの非常時に、「聖戦」をどこか冷やかに見つめ、最後の「なかなか長閑」の一句などは茶化した感すらある。私の母も、旧満洲の開拓地で似たような中国人の態度を見たことがあると話していた。飄々とした態度の中にも、「今に見ていろ!」といった鋭い視線もみられたと言う。(新谷亜紀)

 

機関銃花ヨリ赤ク闇ニ咲ク  西東三鬼

 

戦争のタイトルで機関銃の連句(五句)の一句。五句の送り仮名はいずれもカタカナ。機関銃は引き金を引き続けると自動的。連続的に弾丸が装填・発射される銃。狙撃兵のように一人を狙い撃ちにせず、ただ闇に向って闇雲に銃を撃つ。無差別に・・。三鬼はこの無機質な機関銃を軽蔑し、日本を代表する桜(花)より闇に赤く咲く弾丸の火花を冷静な眼で詠んでいる。反戦の言葉はないが、闇、銃の黒に反発し、花を愛でる心がよぎる作品。(辻本康博)
 

  母と子

子は笑めり夫は死せり五月晴れぬ  瀬戸口鹿影

 

七句連作の第七句。この俳人は,亡父椎霞の遺品数百点の中に短冊らしいものが1枚だけあったのを筆者が遂に読み解けず断念して以来,ずっと気になっていた人である。

今回始めてじっくりと句を鑑賞した。音感とリズムのがっしりと落ちついた句風である。定型が僅かに崩れる兆しを示すが,崩れない。そこはかとないゆらぎを感じさせつつ安定に納めるという,魅力的な技である。この句は,「子は笑めり」と「夫は死せり」との明暗を対比しただけでなく,「子は笑めり夫は死せり」と「五月晴れぬ」との明暗をも二重に対比させている。戦争批判の言葉を一つも用いずに,静かに戦争を批判して見事である。特高刑事も,このような作風の俳人ばかりだったら京大俳句を検挙しにくかったのではないか。

私は,中村三山の「特高君」の連作俳句などはエリートの思い上がりで,不用意に弾圧を招来したと思い込んでいるのだが,鹿影はよほど常識人だったようだ。つい最近,滝川幸辰教授が,刑法講義中の「天皇君」発言だけでなく,戦後に京大総長を務め、学生運動との対立事件を繰り返したという,非常識な性格や言動の持ち主である事実を知ったのだが,歴史的事件となった権力対市民の衝突の脇や裏には人間の風格や生々しい感情が潜むことを,逆説的に感得させてくれた1句である。(野平大魚)


 

                                                     

「三角点」より   

                                                     

戦死者の背にひとつづつとまる蝶  西田 等

                                                        

兵隊は戦場に死すべき者として送り込まれて、戦闘して当然のごとく倒れ死んでゆく。そして「もの」となって弊履のごとく並べ積まれている。一人一人の戦死者の背に、蝶が1羽ずつとまっている――無心であるはずの蝶が、喪われた兵の命を哀惜しているかのように―――。映画「西部戦線異常なし」のラストシーンを直ぐ想起した、戦争の非情・残酷は人の感傷を吹っ飛ばしてしまう、洋の東西を問わない。(片山 了介)

 

チブス兵砲音とどき眼をつむる  宇都宮 杉男


「三角点」蘭の俳句で、平畑静塔に選ばれたものだ。彼のコメントによって、作者自身は何をあらわそうとしたかよくわからなく、「たゞ病兵の病状を述べるに止つてゐる。」それはそうであるかもしれないが、私にとって、この句には二つの記述すべき特徴がある。

それはまず「チブス兵」という新しい戦語(= 戦争の季語)の使い方だ。私が今まで読んだ戦争時代の俳句の中には見たことのない戦争用語であり、この句の新鮮なところの一つであると見られる。又はそれに関連して、この句は戦争における苦しみをきちんと語る勇気をもっている。チブス(チフス)は感染症で、特に戦場に蚤や虱などに媒介されたといい、既にナポレオンのロシア戦役のときに問題となった病気である。日中戦争においても莫大な戦死者の数の原因の一つだ。宇都宮さんの句にもチフスに苦しんでいる兵卒は結局死んでしまう。「眼をつむる」の言葉遣いでその兵卒は既に意識をなくしてしまったと推定できる。連句の一句で、前句には「死の近き」というヒントもある。「砲音とどき」の七音で、死の瞬間又はその句の全体的な瞬間性が見に染みるように強調されている。

纏めると、この句は芸術的に優れたものだとは確かに言い難い。ただ定型をまもり、麦秋という季語さえも前句の「チブス兵麦秋さわぎ死近き」に登場している。しかし、取材の面からみると興味深いものだ。「京大俳句」の特徴は戦争を批判することではなく、戦争をそのままうつすことだった。その一部分は自分の兵隊の苦難と損害も明確に表現することだった。戦争時代の日本にはそれでも犯罪になるというわけだ。他のメディアには勝っている強い日本軍というイメージしか伝えられなかった。国民の士気の低下を防ぐための手段であったが、言論の自由の束縛だった。平畑静塔が多くの投句の中からこのような婉曲ではなく、現実的な句を選んだのが理由があるだろう。(マーティン・トーマス)                                                      

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

  「一句鑑賞余滴」  西田もとつぐ

 

子は笑めり夫は死せり五月晴れぬ  瀬戸口鹿影

 

 野平匡邦さんの瀬戸口鹿影作品の鑑賞には感銘をうけました。目立たない銃後の作品から抜き出し、行き届いた鑑賞は野平椎霞俳句の復刻に心血を注いだ匡邦さんの鑑賞力の賜物と思います。また作品の対句形式で触れたことは行き届いた鑑賞です。「京大俳句」の典型的な反戦銃後俳句の一つが掘り起こされました。自分が発表した一句鑑賞文を「ああ忘れていた」という人は論外であります、大きな題名の中は空洞のような論文より短くとも内容のある一句鑑賞文が後世に残る相応しい短文でしょう。

 ここでさらに屋上屋を架すと「子は笑めり」の持つ意味です。私は昭和9年生まれ80才を迎えます。1945年終戦の時は国民学校(小学校)6年生でした。まだ敗戦の意味が解らず大人達の号泣が不思議でした。太平洋戦争開始の頃から軍国主義の教育が一層厳しくなり、近い将来、「御国(みくに)のために」戦場に出征するのが必然であると教えられました。戦場を思い互いに軍歌を教え合ひ、体操の時間には木銃や木刀、長刀をもって校庭にすえた藁人形に向かって「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」「突貫!」と叫びながら突進する訓練をしました。「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」は物資不足に耐えるスローガンでした。都市部では児童が空襲をさけるために担任の引率による「学童集団疎開」が行われました。これも地元との軋轢や食糧難など、様々な苦しい問題が起こりました。

 「おめでとうございます。召集令状(赤紙)です」と令状が届くと令状の対象者の妻や母は平静に「有り難うございます。夫(息子)が御国のためにお役に立つことができ嬉しく思います」と答えます。出征日までに壮行会を開き、出征の日には「国防婦人会」の日章旗の旗行列に送られて最寄りの駅から任地へ出発するのです。この間、涙一滴こぼすわけには行きません。これが今生の別れかも知れません。これが「軍国の妻(母)」の姿でした。

 夫の出征を送った後、あるいは戦死の報が伝えられた、夜秘かに夫不在の悲しさ、淋しさ、戦死の悔しさ、これからの苦難を思ひ、たちまち涙が噴き上げてくるのです。鹿影はこれを「死せり」と表現しました。匡邦さんもこの悲しみを読み取っています。

 「国防婦人会」は出征軍人の歓送行列、戦死者の遺骨の出迎え、出征軍人、戦死者の留守家庭の慰問などに当たるために結成されました。これらの留守、遺族の家庭に「出征軍人の家」「英霊の家」などの門標を配布してこの家族を顕彰し相互扶助を行いました。門標のある家庭は銃後家庭の模範とならねばなりません。将来「お国のために一命を捧げること」を教えられ、戦争の意義、戦死の意味がまだ良く理解できない軍国少年にとってもこの門標のあることは誇りであります。逆に門標のない家庭の少年にとり負い目でもありました。「子は笑めり」は悲しみの対句ではなく、この少年達の誇りの「笑み」があります。

 

  主人なき誉れの家に蜘蛛の巣が    鶴 彬  1933年 昭和8年

  屍のいないニュース映画で勇ましい    同  1937年 昭和12年

  萬歳とあげていつた手を大陸においてきた 同
  胎内の動き知るころ骨がつき       同

 

 私の父は当時40才過ぎ、北海道の田舎に遠隔の単身赴任でしたが軍隊へ召集は免れました。あるとき母に「お父さんには何故赤紙がこないのか」と訊ねると、母は血相を変えて理由の説明なく「絶対にそんなことを云ってはならない」と激しく叱られました。その後、母に問い直す機会もなかったが、おそらく、口外には出来ない意味があることがわかりました。「父が出征しない幸せを考えなさい」と。父は40才過ぎで軍需産業の経営責任者であるための徴兵、徴用の免除があったようです。これらは当時、絶対に口にできない時代であったのです。「非国民」という罵声が飛び交う時代でした。


 

コメント
コメントする








    
この記事のトラックバックURL
トラックバック

calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM