第76回 「京大俳句」を読む会

  • 2015.02.06 Friday
  • 23:49

次回例会を以下のとおり行います。

日時:2015年2月7日(土)13時30分〜17時
会場:芦屋市民センター 101号

1 「京大俳句」第6巻8・9号(昭和13年8・9月号)の作品について
  〇各号の「会員集」「自由苑」「三角点」の中から各自2・3句を選び寸評

2 「京大俳句」第6巻9号(昭和13年9月号)

〈目次〉

「会員集」
「「海堡」の作品」……平畑静塔(担当:
「戦争俳句第二段階の展開」……仁智栄坊
「自由苑」
「葦平・デユアメル・白虹」……柴田水鵶
「AとBの対話」……X・Y・Z
「船中より」……芝昌三郎
「俳誌夏書」……O・Q
「三角点」
「編集後記」


 

ひとり一句鑑賞(15)

  • 2015.02.06 Friday
  • 23:46


「京大俳句」第六巻(昭和13年)第八號

「会員集」より

 

兵となり男の嘘がふと消える  仁智 榮坊

 

女のこころのタイトルで三句の一句。無季で散文調の作品。兵となり男の嘘が一節で、後はふと消える。

嘘を交えた会話で戯れる男と女。ある日、男が兵となり出征すると告げ、女は驚き、現実に戻される。嘘であって欲しい。戦時中の男女のやるせなさ、くやしさが感じられる作品。特に内地に残された女のこころは如何ばかりか。叙情的で短編の一場面を想い浮かぶようだ。反戦を心の内に秘めている。(辻本康博)

 

「三角点」より

                                 


日章旗ひらひら遺棄死體の上  仁科 海之介                                          

 

戦争俳句が新興俳句の展開に中核的な意義をもつと、一致して当時の主導者は意気込むが、実作においてこれぞという句にはなかなかお目にかかれないようである。そもそも実際戦地にあって、目前の情況・実景をリアルに掴み取って詠むのではなく、銃後・国内で、例えばニュース映画などを見てイメージを得たり想像をはたらかせたりして作らざるを得ないのが実態で、当然いわゆるアタマ句らしいと判ぜられてしまう。

この句もそういう見方をされるものの一つかもしれないが、戦場に「遺棄」された兵士の屍が放っておかれている、それを弊履のごとく踏みつけて日章旗をかかげて進軍していくという戦争というものの実相を提出していることは、日本が中国において強引な戦争を拡張していることへの批判を含んでいるとみられなくもない。おそらく軍の当事者や国体維持の当局が弾圧に乗り出す口実に挙げる例句の一つだろうと思われる。

ただし、それをもってこの句が俳句という詩精神に資するかどうかは別の問題があると思うが、当時の状況に対する批判精神に、小生は共感を覚えるのである。(片山了介)                    

 
千人針見て地下道にもぐり込む  西田 等 


この句は特筆すべきだ。なぜかというと、当時の秘密資料に何回も収められているからだ。たとえば内務省警察局の「社会運動の情況12」には反戦俳句の例として挙げられている。又、「思想月報第78号」にも載っている。後者の場合は「平畑富次郎に対する治安維持法違反被告事件予審終結決定」という文書の形で、平畑静塔がこのような「銃後ノ生活苦等ヲ素朴トシタル反戦俳句ヲ一般購読者ノ投稿作品中ヨリ選句シテ発表」したことが彼の逮捕の理由の一つであるとわかる。

然し、私の卑見なら、この句を「反戦」と名付けるのは明らかに過言である。もちろん、「地下道」と「もぐり込む」の言葉遣いで、読者の中には不気味な気持ちが涌いているけど、この句の本音はやはり解釈によって違う。それは俳句自体の問題であるかもしれないが、表面が17音で限られているから、内容が曖昧であると決まっている。

にもかかわらず私が想像している風景も反戦っぽいといってもいい。「千人針」は季語の代りの戦争キーワードで、出征の意味が含められている。別れるとき(歓送)には母や妹などにお守りとして一生懸命に縫った千人針をくてれ、戦場に着るという習慣があった。作者がこのような出征と関連している千人針(自分のためのものであるか、他人のためであるかわかりません)を見て、私ももうすぐ戦場に立つかもしれないという不安な気持ちになる。それで逃げてしまう、自分の出征から逃げようとしている。作者自身は戦場には居たくない、又は戦場へ逝きたくない。それゆえに地下道にもぐりこんで、自分を隠そうとしている。他の千人針をモチーフとする俳句とけっこう違う風景であると思う。

Martin Thomas

 

ひとり一句鑑賞(14)

  • 2015.02.06 Friday
  • 23:39

「京大俳句」第六巻(昭和13年)第七號                    


「会員集」より


聖戦博飄々と来て去り華人  中村三山

 

ネット検索してみると、この「聖戦博」は昭和13年(1938年)春、西宮球場で開催され、球場の観覧席やフィールドそのものを戦場場面にする大規模なものだったようだ。三山はこの様子を詠んだようだが、掲句の華人よろしく、詠みっぷりも飄々と超然とした感じさえ受ける。国家総動員法が発令されて間もないこの非常時に、「聖戦」をどこか冷やかに見つめ、最後の「なかなか長閑」の一句などは茶化した感すらある。私の母も、旧満洲の開拓地で似たような中国人の態度を見たことがあると話していた。飄々とした態度の中にも、「今に見ていろ!」といった鋭い視線もみられたと言う。(新谷亜紀)

 

機関銃花ヨリ赤ク闇ニ咲ク  西東三鬼

 

戦争のタイトルで機関銃の連句(五句)の一句。五句の送り仮名はいずれもカタカナ。機関銃は引き金を引き続けると自動的。連続的に弾丸が装填・発射される銃。狙撃兵のように一人を狙い撃ちにせず、ただ闇に向って闇雲に銃を撃つ。無差別に・・。三鬼はこの無機質な機関銃を軽蔑し、日本を代表する桜(花)より闇に赤く咲く弾丸の火花を冷静な眼で詠んでいる。反戦の言葉はないが、闇、銃の黒に反発し、花を愛でる心がよぎる作品。(辻本康博)
 

  母と子

子は笑めり夫は死せり五月晴れぬ  瀬戸口鹿影

 

七句連作の第七句。この俳人は,亡父椎霞の遺品数百点の中に短冊らしいものが1枚だけあったのを筆者が遂に読み解けず断念して以来,ずっと気になっていた人である。

今回始めてじっくりと句を鑑賞した。音感とリズムのがっしりと落ちついた句風である。定型が僅かに崩れる兆しを示すが,崩れない。そこはかとないゆらぎを感じさせつつ安定に納めるという,魅力的な技である。この句は,「子は笑めり」と「夫は死せり」との明暗を対比しただけでなく,「子は笑めり夫は死せり」と「五月晴れぬ」との明暗をも二重に対比させている。戦争批判の言葉を一つも用いずに,静かに戦争を批判して見事である。特高刑事も,このような作風の俳人ばかりだったら京大俳句を検挙しにくかったのではないか。

私は,中村三山の「特高君」の連作俳句などはエリートの思い上がりで,不用意に弾圧を招来したと思い込んでいるのだが,鹿影はよほど常識人だったようだ。つい最近,滝川幸辰教授が,刑法講義中の「天皇君」発言だけでなく,戦後に京大総長を務め、学生運動との対立事件を繰り返したという,非常識な性格や言動の持ち主である事実を知ったのだが,歴史的事件となった権力対市民の衝突の脇や裏には人間の風格や生々しい感情が潜むことを,逆説的に感得させてくれた1句である。(野平大魚)


 

                                                     

「三角点」より   

                                                     

戦死者の背にひとつづつとまる蝶  西田 等

                                                        

兵隊は戦場に死すべき者として送り込まれて、戦闘して当然のごとく倒れ死んでゆく。そして「もの」となって弊履のごとく並べ積まれている。一人一人の戦死者の背に、蝶が1羽ずつとまっている――無心であるはずの蝶が、喪われた兵の命を哀惜しているかのように―――。映画「西部戦線異常なし」のラストシーンを直ぐ想起した、戦争の非情・残酷は人の感傷を吹っ飛ばしてしまう、洋の東西を問わない。(片山 了介)

 

チブス兵砲音とどき眼をつむる  宇都宮 杉男


「三角点」蘭の俳句で、平畑静塔に選ばれたものだ。彼のコメントによって、作者自身は何をあらわそうとしたかよくわからなく、「たゞ病兵の病状を述べるに止つてゐる。」それはそうであるかもしれないが、私にとって、この句には二つの記述すべき特徴がある。

それはまず「チブス兵」という新しい戦語(= 戦争の季語)の使い方だ。私が今まで読んだ戦争時代の俳句の中には見たことのない戦争用語であり、この句の新鮮なところの一つであると見られる。又はそれに関連して、この句は戦争における苦しみをきちんと語る勇気をもっている。チブス(チフス)は感染症で、特に戦場に蚤や虱などに媒介されたといい、既にナポレオンのロシア戦役のときに問題となった病気である。日中戦争においても莫大な戦死者の数の原因の一つだ。宇都宮さんの句にもチフスに苦しんでいる兵卒は結局死んでしまう。「眼をつむる」の言葉遣いでその兵卒は既に意識をなくしてしまったと推定できる。連句の一句で、前句には「死の近き」というヒントもある。「砲音とどき」の七音で、死の瞬間又はその句の全体的な瞬間性が見に染みるように強調されている。

纏めると、この句は芸術的に優れたものだとは確かに言い難い。ただ定型をまもり、麦秋という季語さえも前句の「チブス兵麦秋さわぎ死近き」に登場している。しかし、取材の面からみると興味深いものだ。「京大俳句」の特徴は戦争を批判することではなく、戦争をそのままうつすことだった。その一部分は自分の兵隊の苦難と損害も明確に表現することだった。戦争時代の日本にはそれでも犯罪になるというわけだ。他のメディアには勝っている強い日本軍というイメージしか伝えられなかった。国民の士気の低下を防ぐための手段であったが、言論の自由の束縛だった。平畑静塔が多くの投句の中からこのような婉曲ではなく、現実的な句を選んだのが理由があるだろう。(マーティン・トーマス)                                                      

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

  「一句鑑賞余滴」  西田もとつぐ

 

子は笑めり夫は死せり五月晴れぬ  瀬戸口鹿影

 

 野平匡邦さんの瀬戸口鹿影作品の鑑賞には感銘をうけました。目立たない銃後の作品から抜き出し、行き届いた鑑賞は野平椎霞俳句の復刻に心血を注いだ匡邦さんの鑑賞力の賜物と思います。また作品の対句形式で触れたことは行き届いた鑑賞です。「京大俳句」の典型的な反戦銃後俳句の一つが掘り起こされました。自分が発表した一句鑑賞文を「ああ忘れていた」という人は論外であります、大きな題名の中は空洞のような論文より短くとも内容のある一句鑑賞文が後世に残る相応しい短文でしょう。

 ここでさらに屋上屋を架すと「子は笑めり」の持つ意味です。私は昭和9年生まれ80才を迎えます。1945年終戦の時は国民学校(小学校)6年生でした。まだ敗戦の意味が解らず大人達の号泣が不思議でした。太平洋戦争開始の頃から軍国主義の教育が一層厳しくなり、近い将来、「御国(みくに)のために」戦場に出征するのが必然であると教えられました。戦場を思い互いに軍歌を教え合ひ、体操の時間には木銃や木刀、長刀をもって校庭にすえた藁人形に向かって「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」「突貫!」と叫びながら突進する訓練をしました。「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」は物資不足に耐えるスローガンでした。都市部では児童が空襲をさけるために担任の引率による「学童集団疎開」が行われました。これも地元との軋轢や食糧難など、様々な苦しい問題が起こりました。

 「おめでとうございます。召集令状(赤紙)です」と令状が届くと令状の対象者の妻や母は平静に「有り難うございます。夫(息子)が御国のためにお役に立つことができ嬉しく思います」と答えます。出征日までに壮行会を開き、出征の日には「国防婦人会」の日章旗の旗行列に送られて最寄りの駅から任地へ出発するのです。この間、涙一滴こぼすわけには行きません。これが今生の別れかも知れません。これが「軍国の妻(母)」の姿でした。

 夫の出征を送った後、あるいは戦死の報が伝えられた、夜秘かに夫不在の悲しさ、淋しさ、戦死の悔しさ、これからの苦難を思ひ、たちまち涙が噴き上げてくるのです。鹿影はこれを「死せり」と表現しました。匡邦さんもこの悲しみを読み取っています。

 「国防婦人会」は出征軍人の歓送行列、戦死者の遺骨の出迎え、出征軍人、戦死者の留守家庭の慰問などに当たるために結成されました。これらの留守、遺族の家庭に「出征軍人の家」「英霊の家」などの門標を配布してこの家族を顕彰し相互扶助を行いました。門標のある家庭は銃後家庭の模範とならねばなりません。将来「お国のために一命を捧げること」を教えられ、戦争の意義、戦死の意味がまだ良く理解できない軍国少年にとってもこの門標のあることは誇りであります。逆に門標のない家庭の少年にとり負い目でもありました。「子は笑めり」は悲しみの対句ではなく、この少年達の誇りの「笑み」があります。

 

  主人なき誉れの家に蜘蛛の巣が    鶴 彬  1933年 昭和8年

  屍のいないニュース映画で勇ましい    同  1937年 昭和12年

  萬歳とあげていつた手を大陸においてきた 同
  胎内の動き知るころ骨がつき       同

 

 私の父は当時40才過ぎ、北海道の田舎に遠隔の単身赴任でしたが軍隊へ召集は免れました。あるとき母に「お父さんには何故赤紙がこないのか」と訊ねると、母は血相を変えて理由の説明なく「絶対にそんなことを云ってはならない」と激しく叱られました。その後、母に問い直す機会もなかったが、おそらく、口外には出来ない意味があることがわかりました。「父が出征しない幸せを考えなさい」と。父は40才過ぎで軍需産業の経営責任者であるための徴兵、徴用の免除があったようです。これらは当時、絶対に口にできない時代であったのです。「非国民」という罵声が飛び交う時代でした。


 

ひとり一句鑑賞(13)

  • 2015.02.06 Friday
  • 23:31

「京大俳句」第六巻(昭和13年)第六號

「会員集」より

パラシュート撃たるゝほかはなき白さ  杉村聖林子

降下中のパラシュート兵はひたすら撃たれる恐怖にさらされる。銃を抱えていたとしても、撃つ体勢をとれず無防備である。パラシュート兵の服が白とは限らないが、撃たれれば血の色が鮮やかに変わるだろう。白さは弱さや純潔と同義だが、白いパラシュートで兵の命は守れない。撃たれるしかない。
「パラ+シュート」とは、「落ち+ない」ことと「撃た(れ)+ない」ことの両義を持つ英語かと思ったら、全くの勘違い。parashoot が正しいなら「撃たれない」の意味でシャレになるのだが、parachuteが正しい綴りの、元は仏語(さらに元はラテン語)だそうだ。日本語には落下傘という名訳がある。
では、仏語chute(発音はシュートではなくシュット)とは何か。英語ではfall(落下)。仏語シュットから英語シュートに取り込む時に発音が長音に伸び、ここに私の誤解が生じた。角川外来語辞典は、日本語ではパラチウト⇒パラチュート⇒パラシュートと変遷したことを記録している。
墜落chuteは防げるが、射撃shootはかわせない。撃たるゝほかはなし。無力さと無念さを表現する末尾の「白さ」が見事に効いている。(野平大魚)

従軍僧焦げし一枝を挿して去る  石橋 辰之助

従軍僧は軍隊に従う僧侶のこと。布教と慰問をなし、戦死者の葬儀や弔祭、負傷者の看護にあたった。
戦争で焦土になった地に供華の代わりの一枝を挿した。墓標のない戦地での一コマの場面である。ただ声を出し経文を読むだけしか出来ない僧である。死者に代わって戦うことも出来ない僧の喪失感溢れる句である。代わって戦う気持ちは私の独断と偏見である。挿して去るの下五に僧として、人間としての悲しみと反戦への気持ちが見える作品である。 (辻本康博)


「第二回特別募集」より

屍凍むポキリと裸木月に折れ  東京市 古川克巳

「戦争」と前書きがあるので、「屍」は兵士であろう。その屍も凍るような寒い日。全てが乾燥しきり、木の枝がポキリと折れる音がする。月はその音を聞いたのだろうか。ただ煌々と屍を照らす。私は山口誓子の「悲しさの極みに誰が枯木折る」という句を思い出した。(恵)

雨阿呆(あっぽ)僕の辷り台(すべりこ)ぬれるのよ 志波汀子

志波家の庭にはブランコも辷り台もあったのでしょう。子供は詩人と言ったけどほんとですね。(綿原)


「三角点」より

職がない俺は戦争に行つちまへ  山口一夫

戦争を二つに分けるとすれば、血の臭いのするリアルな殺し合いと観念的な紛争劇。集団的自衛権の論 議に出て来るのはどちらの戦争かとふと思う。思わず目を覆いたくなるようなリアリティーに満ちた十七文字の並ぶ中で、この句は少し違った光を放つ。職にあぶれ、食う手段を失って自暴自棄になった者の向かう先が戦争だとすると、戦後69年経った今の日本の危うさはどうだ。リアルな表現に満ち溢れた昭和10年代の戦争俳句を、今の日本に照射する意味合いは、思った以上に大きいのかも知れない。(四宮陽一)
 

ひとり一句鑑賞(12)

  • 2015.02.06 Friday
  • 23:22
                                                                                             
「京大俳句」第六巻(昭和13年)第五號 

「会員集」より
 
老兵と鴉びしょ濡れ樹の上に  西東三鬼

「老兵」は老いた兵士でなく、ベテランの中国人狙撃兵であるとの前文付きの句。「ラオピン」のルビも振 られている。この樹の立つのは広大な満州の大地であろうか。折から降り始めた雨に濡れそぼちながら敵を待ち伏せる兵士の姿は、同じ樹に留まる黒い鳥の影と重なり合う。それにしても、三鬼はどこからこの光景を眺めているのであろうか?(四宮陽一)
 
老兵の彈子しづかに命中す  西東 三鬼

銃口の向けられている先もまた掛替えの無い命なのであるが、そのことには触れず、「しづかに命中す」と、冷静で抑制の効いた捉え方をすることによって、戦争そのものの異常さと、作者の嘆きの深さが伝わってくる。(小寺 昌平)
 
一兵士はしり戦場生れたり  杉村聖林子

一人の兵士が、「敵襲来」と言って走ってきた。そこから、銃弾が飛び交う戦闘が始まる。戦争とはこういうものであろう。きっと、作者は映画の一シーンを見て作ったのだと思う。実際に兵士として戦場にいたというわけではないからこそ、こんなにも冷静に描写できるのではないかと思ったりした。(恵)
 
入學の子等に櫻は笑つてゐる  淺田善二郎

散文の様な句である。解釈すれば成長して入学した児童たちに桜は拍手をし、うれしくて笑みを浮かべていると詠める。だがそうであろうか。桜を擬人化して用いている。桜と菊は日本の国花である。児童は日本のために頑張ってくれる宝である。いや国益のための兵士の卵である。日本(桜)は出征のための幼い子供たちの前途を喜んで大口を開け笑っている。作者は戦時中の世相を憂い、擬人法で作品を詠んでいる。軍国主義の日本への非難、戦争を嫌う作者の心情と解釈するのは読み過ぎであろうか。
(辻本康博)
 
征子ゆれ花人ゆれてゆく電車    井上白文地
稿起す馬蹄の音が風と消え

巻頭論文のタイトル「戦争俳句論」に肝がつぶれた。井上白文地「戦争俳句の見通し」,山口誓子「戦争無季俳句のこと」,石橋辰之助「戦争俳句覚書」の3人競演だ。騒々しい危険さすら感じられた。76年後の今の私が2年後の弾圧とその後の会員の悲劇を歴史的事実として知っているためである。
私は白文地論文の抑制の効いた表現に感心した。三鬼の名作「機関銃熱キ蛇腹ヲ震ハセル」すら「ただ気が利いてゐる,味方が鋭い」だけではないかと,あえて疑問を呈している。「今日のところ出征軍人によって,まだ注目せられるほどの作品が現はれないと言つても,今後数年の間には,これらの作家によって,優れたものが生み出されるであろうことは,想像に難くない」と大胆に予測した。
白文地自身の同号の会員集の4句は実に穏やかな表現から成っている。穏やかに表現の抑制ができた指導者が,狙撃されたかのようになぜ最大の悲劇に会わなければならないのか。2句のみ引用する。
   征子ゆれ花人ゆれてゆく電車
   稿起す馬蹄の音が風と消え
ここではたと思いつき,インターネットで「野平椎霞」を検索した。この時期,椎霞は他の会員に先駆けて応召し,陸軍佐倉連隊の軍医少尉であった。「軍医野平椎霞の慟哭 西田もとつぐ(「京大俳句」復刊準備会会報 1号)」がヒットした。西田もとつぐ論文を読んでシュンとなった。遺族が言うので自慢めくが,「従軍記」は,白文地の予測を裏切らなかった作品群であると西田論文は述べているに等しい。白文地はこれらの作品を見ることはなかった。(野平大魚)
 

「自由苑」より
 
戦雲の蹠か白い性病院  堀内 薫

性病院と言えば、鈴木六林男全句集の栞で宇多きよ子さんが「三好潤子と腕をくんでいた高柳重信が突然振り返ってあれが〈かなしきかな性病院の煙突(けむりだし)〉を書いた鈴木六林男だ、よく見ておくことだ、重信の少し前を行く鈴木六林男を指さした」を思いだした。この句、戦雲の真っ黒いイメージに足裏の白と中七を詩的にまとめつつ白亜の性病院の斡旋が悪くない。堀内薫の全句集には戦前の句は一句もない。あたかも自分の青春をカットして、新興俳句を見捨てての再出発であったかに。六林男の句にそんなに劣るとも思えぬが如何に。富澤赤黄男の句集『天の狼』の最後の句に〈三日月よけむりを吐かぬ煙突〉がある。(綿原)
 
 
                                                                                            
「京大俳句」第三巻(昭和13年)第三號(追加分)

「自由苑」より

 郷人の憂へ    
          −大内兵衛検挙−
郷人の憂へ初號活字「大内」        堀内 薫
「改造」に「中央公論」に君は厖大なりし
皇師征く氷原の記事と君の不忠
紙面黝く大學メンバーの寫真群
粉雪降る囹圄に君は錠鎖されぬ
 
「改造」「中央公論」ともに大正、昭和を代表する総合雑誌。昭和19年の横浜事件に巻き込まれ廃刊となった。
囹圄=獄舎  郷人=同郷の人 大内兵衛は兵庫県淡路島出身   皇師=天皇の軍隊、みいくさ             
「大内兵衛の検挙」とは1937ー38年(昭和12年ー13年)の人民戦線事件の渦中の事件である。コミンテルン(世界各国の共産党組織)の反ファシズム戦線の呼びかけにより日本でも反ファシズム戦線が結成を企てたと共産党以外の労農派の大学教授、学舎グル−プ、政党人が検挙された。大内兵衛、脇村義太郎、美濃部亮吉、有沢広看、加藤勘十、鈴木茂三郎、江田三郎の学者、労働運動家が検挙された。治安当局が治安維持法の適用の範囲を共産党以外に適用した最初の事件である。平畑静塔が「方舟の中(二)」(六巻五号)で堀内薫の作品を取り上げていることは、迫り来る治安当局の動きに危機意識をいだいていたのである。(西田もとつぐ)

 

ひとり一句鑑賞(11)

  • 2015.02.06 Friday
  • 23:11


「京大俳句」第六巻(昭和13年)第四號 

                    


「会員集」より


喇叭吹く星やはらかに生るる世を  三谷 昭


喇叭を巡る3連作の最初の句。荒涼とした戦争俳句の野を読み進んでいると、ふと殆どの句に季語が失われている事に気づく。戦争には季節感を寄せ付けぬ、あるいは四季の移ろいとは無縁の切迫感があるようだ。この句にも厳密な意味での季語は見当たらぬが、やはらかに姿を現す星には何故か春の季感が漂う。喇叭の音につきまとう‘戦意’とは離れた世界がそこにある。「生るる夜」でなく「生るる世」としたところがにくい。(四宮陽一)


軍橋もいま難民の荷にしなふ  平畑静塔


軍橋は造語である。軍が造った橋か、軍が利用するための橋かは分からないが、日中戦争の出来事である。軍の重要拠点である橋に、避難するための荷物を持ち多数の難民が行き交う。頑丈な橋も難民の荷物にしなうほどだ。作者は冷ややかな目線で、この風景を見つめている。軍のための橋が、今は難民の役に立っている。反戦の言葉は無いが、軍橋、難民、荷にしなふと言葉を繋ぎ、軍への皮肉、非難と合わせ、平和を願う作者の心情が読み取れる。(辻本康博)

 

生き疲れしひとぞ戦争に甦る   宮崎戎人


死にかけて生気が失せたような人も、近頃そわそわしている。景気が悪いと嘆いた人がぼやかなくなった。お祭りがあると急に元気になるように。景気回復の手段として戦争も有効と云った人がいたが、例えにしても庶民の蓄えが紙屑になる代償であることに間違いない。 三橋敏雄の「戦争にたかる無数の蠅しずか」を思い出した(綿原)

 
 

「自由苑」より

 

敵機載せ雲塊の吹雪き来るか  堀内 薫


堀内薫が昭和15年に逮捕された理由がこれまで理解できなかったが,今号を読んでその活躍ぶりが目を射た。「吹雪き来るか」は「吹雪きがきたる」ではなく,「吹雪いてきたるか」の意味だと思うが,「敵機待つ日々」連作5句の中で辛うじて理解できた1句。難解句ばかりだ。杭州南方から東方へ敵機12機が上空高く飛んで行った景を多分想像して詠んだ句で,「敵機載せ雲塊の」は映像的な表現として上手だ。内地や日本軍の被害を案じているかと思われるが,本質的には戦争を嫌悪している句ではないか。字足らずの下の句になんとなく不安を醸し出す感じがあるが,1種の技法なのか。「きたるか」「くるか」のどちらでも読めるというのは,日本語表記法の問題だとも思うし,不安を煽る効果があるのかとも思う。

堀内薫「事変俳句総論」は7ページの大論文で,岸風三楼の編集後記に取りあげられている。岸風三楼の会員日記では,山口誓子が「戦争と俳句」を翌日ラジオ放送するに当たり選んだ5句の中に堀内の句「天征くは青年将校と風伯と」が入っていると書かれている。「風伯」は風の神様だそうだ。

作句が減ってきた野平椎霞が大病回復後に千葉県佐倉連隊に入営し,翌昭和14年夏に病院船で上海上陸するのと対照的に,前年の京大俳句で堀内薫が縦横無尽の活躍をしていたことを知り,才能と逮捕の背景を納得できた。悲劇は近づいてきていた。(野平大魚)


よろこびはぢらせばふつと消えて行く  志波汀子


久しぶりの志波汀子の俳句。口語俳句である。私の場合「よろこぶ」ことの少ない毎日である。他人から見れば、ひょっとして喜ばしいことでも、素直に喜べない自分がいる。素直に表せば「よろこび」は消えて行くこともないのであろう。同じ作者に「よろこびはじつと抱きしめてをればよい」という句もある。しかし、「よろこび」は抱きしめていてはいけない。素直に表すべきである。(恵)


 

「三角点」より                                                 


寡婦貧しあをき若菜を買ってゐる  神戸市 藤木清子
 

ここで言う「若菜」は新年の七種粥に入れる菜のことだろう。「せり・なずな・・」いずれも香りが強く生気に満ちている。それに反して、自然の生命力からはほど遠い我が身。清子はこの頃、戦死者の未亡人ではない「寡婦」の苦悩を伺わせる句を多く詠んでいる。「若菜」の青さは残酷なまでに青く、目にも心にも沁み入るのだろう。(新谷亜紀)

                         


冬ぬくき寡婦に債鬼が訪れる  神戸市  藤木清子                                      


戦時下であっても、寡婦という身には、いつの世にも変わらぬ日常の生活はあれこれ続いている。冬になっても思いがけず暖かいと喜んでいた寡婦に、招かれざる借金取りが突然来たり、心重く冷えることである。庶民の生活の哀歓の情が平明に伝わってくる。冬ぬくしとキれば債鬼との異和感があるが、冬ぬくき寡婦ならば対照的に、俳諧的なドラマが感じられるように思う。 (片山了介)

 

紀元節五色旗掲ぐ家見たり   大阪市 樋口喜美子

紀元節学生の列に我行かず


紀元節は現在の建国記念日。明治六年、日本書紀の神武天皇の建国伝説を根拠に制定され万世一系の天皇制の国威を高揚する記念日であった。学校では式典が行われ、紀元節の歌を斉唱した。特に、昭和十五年を皇紀2600年にあたるとして様々な記念行事を準備した。日本は神の国であると戦時体制を強めていった。「京大俳句」の表紙の年号表示は西暦表示が多かったが、昭和14年七巻八号からは2599と表記されている。これは自主的なものでなく強制されたものであろう。樋口喜美子の句の五色旗は中華民国の国旗である。これを紀元節に掲揚した在日の中国人が親日的な意味で掲げたのか、抗日的な意志を表明したのか判断し苦しむが(当時、日本政府は泥沼化する日中戦争に手を焼き国民党を分裂させて親日的な傀儡政府を作らせようと苦慮していた。)作者の樋口は紀元節の行事には拒否姿勢を示している。それゆえに町中で見る紀元節の五色旗の掲揚は複雑な驚きであった。(西田もとつぐ)

 

砲火一閃野に進軍のうき上る  大阪市 橋本雅子


白文地選。作者名から推測して女性の作か。戦闘の場面が詠まれているが、実際にその場に居合わせることは無いと思われるので、事変ニュースなどからの取材かも。それにしては臨場感に溢れ、戦闘の不気味さを見事に突いている。(小寺 昌平)


 

calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
<< February 2015 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM